尾去沢鉱山の歴史明治以前の鉱山明治以降の鉱山
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尾去沢鉱山の歴史

尾去沢鉱山は、鉱脈型銅鉱床と呼ばれ脈状の銅鉱脈を採掘した鉱山でした。
史跡 尾去沢鉱山では、これらの坑道、採掘跡を一般に公開した施設で、貴重な産業遺産が多く残されており、
近世から近代にかけての日本の鉱業の変遷を見ることができます。

伝説の時代

尾去沢鉱山の発見は、奈良時代の和銅元年(708年)であると伝えられています。
記録として残されているものは、南部藩士の私記「祐清私記」や「長坂見立始り」、「大森親山獅子大権現御伝記」など主には江戸時代に書き残されたものです。

ある伝記では「長坂」や「田郡」(尾去沢鉱山の一部)の金が奈良東大寺の大仏鋳造に使われたと伝えられています。 また、鹿角地域は康平5年(1062年)前九年の役の際に、厨川(盛岡市)で滅亡した安倍氏が統治していましたが、その後、尾去沢の金が平安末期、藤原氏によって築かれた平泉の黄金文化に大いに貢献したと伝えられております。

尾去沢鉱山は、鹿角地域を支配していた、時の権力者の隠し財産であっことも影響し、確かな文献は残されておりませんが、当地には大日霊貴神社、錦木塚伝説等、1300年前の伝説が数多く残されております。

江戸時代の鉱山運営

江戸時代の尾去沢鉱山では、山師や商人が直接鉱山の経営を行い、採掘の量に応じて運上金を取る「請山」と、藩が直接経営する「直山」の方法でその運営が行われていました。しかし「直山」の場合であっても、実際の仕事は山師に行わせることが多かったようです。

江戸時代の採掘は、金掘大工と呼ばれる採鉱夫が槌と鏨を使って行っていました。このため採掘には高度な技能が要求され、その技能の伝承は徒 弟制度により引き継がれました。鉱山の作業は危険を伴うことが多かったことから、鉱山で働く人たちはその家族も含め相互扶助の固い絆で結ばれ ていました。この組織を「友子」と呼び技能の伝承や相互扶助が行われたようです。
藩政時代の鉱山には、鉱山ごとに決められた法律(山法)がありまし た。当時の鉱山は一般の法律に対し治外法権におかれた特殊な社会で、山法は鉱山での生活やそこで働く人達に適用される処罰規定でした。

隠れキリシタン

尾去沢鉱山の場合は「御敷内二七ヶ条」と呼ばれる山法が布かれていたことが、古文書によって知られています。その内容は、他の工夫の持場 を勝手に掘るとか、役人がつけた目印や封印を壊すとか、故意に放棄するなどの行為を重罪とし、それぞれに厳しい処罰の方法を定めています。
さらに、鉱山での生活についても違反に対する罰則が定められており、当時の鉱山での厳しい生活のようすを知ることができます。

慶長17年(1612年)幕府は、キリスト教を禁じ弾圧にのりだします。これにより西国より多くの信者が難を逃れ、「隠れキリシタン」としてこの地の鉱山での 潜伏生活を送ります。最初は山法を守っている限り安全であった鉱山での生活も、次第にその取締りが厳しくなり、寛永20年(1643年)白根金山では多くの 信者が捕らえられ処刑されたと伝えられています。