尾去沢鉱山の歴史明治以前の鉱山明治以降の鉱山
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明治以前の尾去沢鉱山の歴史

明治以前の尾去沢鉱山の歴史 尾去沢地域には、
東に西道、五十枚、南に赤沢、長坂、槙山、西に元山、田郡、北に崎山などの金山や銅山がありました。これらの鉱山は、それぞれの開発の年代も異なり、相互の結びつきもなく幕末まで別々の鉱山とされていました。

和銅元年(708)
尾去沢銅山発見の伝説が残されている。
天平21年(749)
この年尾去沢田郡で産金、
朝廷へ献上したと伝えられる。
文明13年(1481)
「大森親山獅子大権現御伝記」によれば、この年獅子沢、赤沢で銅発見。
天正18年(1590)
豊臣秀吉、東北仕置を行う。尾去沢の諸鉱山は、盛岡南部氏の所領となる。
慶長3年(1598)
後に金山奉行となる南部藩士北十左衛門、白根金山(小真木鉱山)を発見し、開発に着手。
寛永20年(1643)
その後五十枚金山(慶長4年)、西道金山(慶長7年)を開発。
寛文6年(1666)
白根金山で多くのキリスト教徒が捕らえられ処刑される。
明治以前の尾去沢鉱山の歴史
元禄8年(1695)
田郡で銅鉱を発見。
続いて元山、赤沢でも銅鉱を発見。繁栄を極める。
正徳5年(1715)
長坂銅山、崎山金山を発見。
明和2年(1765)
幕府より長崎御用銅65万斤の出銅を割当てられる。
買い上げ価格が安かったことから著しく藩の財政を圧迫。
寛政元年(1789)
南部藩が直接経営に乗り出す。
文久3年(1863)
産銅わずかに20万斤となり幕府に減銅を乞う。
慶応元年(1865)
アメリカ人の
指導により発破(火薬による採掘)試験を行う。
産銅100万斤を超える。